2006年05月22日

名神(上り)桂川PA 名神起工の地 記念碑

5/21の永源寺に行った際に寄った名神でのパーキングエリアです。PAでありながらも、さすが名神っと思うSA並みの大きさのパーキングエリアです。
ここで、とても興味深い記念碑がありました。

昭和33年に日本最初の高速道路として名神高速道路を作った際に起工した場所が、この桂川PAより北に9km行った山科の場所なのだそうです。その場所には、中央分離帯に石碑が設けられているそうです。

それからもうひとつ。
同じところに、日本で初めて高速道路にかかった歩道橋の記念碑もあります。歩道橋自体は拡幅工事のため撤去されたらしいですが、この記念碑に合わせて、かかっていた歩道橋の輪切りが展示されています。

こんな感じで、同じエリアに隣り合って置かれています。

ちなみに桂川PAはこんな風です。

こんなに広いです。

サービスエリア・パーキングエリア情報|西日本高速道路サービス・ホールディングス株式会社
http://www.w-holdings.co.jp/sapa/index.php?institution_id=2007

(写真は5/21撮影です)


posted by mizar | Comment(1) | TrackBack(0) | 京都方面
この記事へのコメント
はじめまして。福井市在住の大嶋昌治(おおしままさはる)と言います。聖書預言を伝える活動をしています。

間もなく、エゼキエル書38章に書かれている通り、ロシア・トルコ・イラン・スーダン・リビアが、イスラエルを攻撃します。そして、マタイの福音書24章に書かれている通り、世界中からクリスチャンが消えます。その前に、キリストに悔い改めて下さい。ヨハネの黙示録6章から19章を読めば分かりますが、携挙に取り残された後の7年間の患難時代は、苦痛と迫害の時代です。患難時代を経験しなくても良いように、携挙が起きる前に救われてください。

今から記事とは関係のない事を書かせて頂きます。邪魔なら削除してくださいませ。

今さっき、第二サムエル記18章18節に、以下のように書かれているのを知りました。

『アブサロムは生きていた間、王の谷に自分のために一本の柱を立てていた。「私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから」と言っていたからである。彼はその柱に自分の名をつけていた。それは、アブサロムの記念碑と呼ばれた。今日もそうである。』

アブサロムはダビデの息子で、ダビデに反逆した男です。アブサロムはイスラエルの民が見ている前で、ダビデの側室10人とSEクスしたという忌々しい罪を犯した男です。しかし、このような男でも、3人の息子と、1人の娘がいました(第2サムエル記14章27節)。

しかし、18章18節に書かれているように、3人の息子達が死んでしまいました。恐らくは3人とも幼少期に死んでしまったのだと思います。3人の息子を失ったアブサロムが「私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから」という理由で、自分のために記念碑を立てるという・・・。

もうね・・・。

涙が出てきそうです・・・。

どこで間違えてしまったのだろうか。ダビデが人妻であるバテシェバとSEクスして、その1回のSEクスで妊娠させてしまって、その妊娠を隠すためにバテシェバの夫のウリヤを意図的に最前線に送り出して殺しました。ダビデはその姦淫と殺人の罪を隠し通したつもりでしたが、神は預言者ナタンを通して、その罪をダビデに突きつけました。ダビデは悔い改めて、神はその罪をお許しになりました。

しかし、ダビデはその後の人生で、激烈な労苦の日々を生きる事になります。ダビデの罪は確かに許されましたが、姦淫と殺人の代償を払う事になりました。バテシェバとの間に生まれた最初の子供が死んだ事がその代償です。その後も労苦は続きます。ダビデの息子アムロンが異母姉妹タマルを強姦した事によって、タマルの実兄のアブサロムが激怒して、アブサロムがアムロンを暗殺しました。その後、アブサロムがダビデに離反して、彼の3人の息子が死んて、最期にはダビデの配下の将軍に殺されました。

・・・。

話を戻します。

アブサロムの記念碑の記述を聖書に加えられた事は、神の憐れみと言えるのではないかという気がします。たとえ神が18章18節を聖書に加えなかったとしても何の問題もなかったと思います。しかし加えられたのは、アブサロムが3人の息子の死に対して、とてつもない寂しさと心労を感じていたのをご覧になっていて、せめてアブサロムの記念碑の存在を聖書に加える事で、アブサロムにも人間の心があり、息子たちの死を悲しむという人間的な感情を持っていたという事を、聖書を読む全ての世代に伝えたかったのではないかという気がします。

18章18節を聖書に収録された真意は神がご存知ですが、この一節は、神の慈しみが示されている一説のように思いました。第二サムエル記18章18節に、私は、神の善性を見ました。

これで筆を置きます。
Posted by 大嶋昌治 at 2024年08月20日 01:29
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